
冷酷な夫に見切りをつけた天才妻の華麗なる逆襲
章 2
病院の重々しいガラスの自動ドアが、凛の目の前でゆっくりと開いた。
一歩外へ踏み出すと、秋の冷たい雨を含んだ風が、容赦なく吹き付けてくる。
薄い病衣一枚の体は、芯から震えた。
ズキリ、と下腹部に重い痛みが走り、凛は思わずドアの冷たい金属フレームに手をついた。
浅い呼吸を繰り返し、痛みの波が過ぎ去るのを待つ。
どれほどの時間がそうして過ぎたのか、凛には分からなかった。ただ、その間に、鷹司暁の黒いセンチュリーは、とっくに病院を後にしていたのだろう。
その時だった。
一台の黒いトヨタ・センチュリーが、水飛沫を上げながら彼女の目の前を疾走していく。
見慣れた、鷹司家の紋章が入った専用車。
雨に濡れたアスファルトの上で、そのナンバープレートがネオンの光を反射して一瞬光った。
あの車に、鷹司暁と安藤静が乗っている。
凛は傘も差さず、まっすぐに雨の中へと歩き出した。
冷たい雨粒が、あっという間に彼女の長い髪を濡らし、肌を打つ。
だが、その冷たさが、不思議と混乱した頭を冴えさせていくようだった。
手を上げると、一台の空車のタクシーが静かに停車する。
後部座席のドアを開けて乗り込むと、濡れた体から滴り落ちた水滴が、本革のシートに染みを作った。
バックミラー越しに、運転手が訝しげな視線を向けてくる。
「どちらまで?」
「……港区、南青山七丁目」
凛は、母親が遺した古いマンションの住所を告げた。
タクシーは、銀座の華やかな大通りを滑るように進んでいく。
車窓の外では、色とりどりのネオンサインが、降りしきる雨の中で歪んで見えた。
交差点で、車が赤信号でゆっくりと停止する。
止まったのは、ミシュラン三つ星を誇る最高級フランス料理店『ロオジエ』の、大きなガラス窓の真ん前だった。
何気なく、凛は窓の外に視線を向けた。
そして、その動きがぴたりと止まる。
雨でぼやけたガラスの向こう、暖かなシャンデリアの光が降り注ぐ窓際のVIP席。
そこに、鷹司暁が座っていた。
彼の隣には、安藤静。
そして、その向かい側には——凛のたった一人の息子、鷹司輝の姿があった。
凛の呼吸が止まった。輝は、いつも鷹司家の屋敷で暮らしており、凛が彼と会えるのは月に数回、決められた時間だけだった。その輝が、今、自分ではない女と、まるで本当の親子のように笑い合っている。その光景は、凛の胸を深く抉った。
指が、ドアのハンドルを強く、強く握りしめる。爪が、肉に食い込むほどの力で。
彼女の目に映ったのは、五歳になる輝が、満面の笑みで、綺麗に包装された手作りのプレゼントの箱を、安藤静に差し出す光景だった。
静はわざとらしく口元に手を当て、驚きと喜びに満ちた表情を作る。
そして、輝の頬に、ちゅ、と音を立ててキスをした。
その光景を眺める鷹司暁の、いつもは冷たい顔の輪郭が、ふわりと和らいでいる。
彼はポケットから、深い青色のベルベットの小箱を取り出した。
箱が開けられる。
中から現れたのは、眩いばかりに輝くダイヤモンドのネックレスだった。
暁は自ら立ち上がると、静の首の後ろに手を回し、そのネックレスをつけてやる。
凛は、思い出した。
あのネックレスは、先月、タカツカサ・グループが南アフリカのオークションで競り落とした稀代の逸品だ。
てっきり、自分の誕生日プレゼントなのだと、心のどこかで、愚かにも期待していた。
レストランの中の三人は、まるで本当の家族のように、幸せそうに笑い合っている。
雨の降る夜の車道で、たった一人、ずぶ濡れでそれを見つめる凛の世界とは、完全に隔絶されていた。
喉の奥から、生臭いものがせり上がってくる。
凛は衝動的に顔を背け、固く目を閉じた。
涙が、零れ落ちないように、必死で眼球の裏側へと押し戻す。
信号が青に変わる。
タクシーが再び走り出し、あの残酷な光景を後方へと置き去りにした。
凛は、濡れたコートのポケットからスマートフォンを取り出す。
画面には、やはり家族からの連絡は何もない。
ただ一件、システムからの自動通知が、通知センターに表示されていた。
「本日、10月25日はあなたの26歳の誕生日です。お誕生日おめでとうございます」
凛は、その無機質な文字を見つめた。
唇の端が、歪んで吊り上がる。
ああ、そうか。
彼らは、自分の誕生日を祝っているのではなかった。
安藤静が、五年前の事故から退院した記念日を、祝っているのだ。
彼女は連絡先リストを開いた。
「鷹司 暁」
その名前に指を置き、一秒の躊躇もなく、左にスワイプする。
「連絡先を削除」
赤いボタンを、強くタップした。
次に、彼女は隠しフォルダから、別の番号を呼び出す。
東京で最も腕利きの、離婚専門弁護士のプライベート回線だ。
数回のコールの後、電話は繋がった。
「……佐伯先生」
凛の声は掠れていたが、その響きには、これまでにない鋼のような硬質な決意が宿っていた。
「離婚協議書の作成をお願いします。条件は、慰謝料も財産分与も一切不要。私は、鷹司家から一円も要りません。ただし、母が遺した会社、『エターナル・テック』の全株式。それだけは、必ず取り戻します」
深夜の突然の電話に、弁護士は驚いたようだった。
だが、凛の口調に滲む尋常ではない覚悟を感じ取り、すぐに恭しい声で応じた。
「……承知いたしました。明朝一番で、ドラフトをお送りします」
電話を切った後、凛はシートの背もたれに深く体を預け、目を閉じた。
腹部の鈍い痛みが、まだ続いている。
だが、心は、全てが引き裂かれた後の、奇妙なほどの静けさに満たされていた。
タクシーが、古いがセキュリティの厳重なマンションの前で停まる。
凛はドアを開け、一度も振り返ることなく、夜の闇の中へとその身を消した。
おすすめの作品





