
灰の中から立ち上がる:消された天才令嬢の帰還
章 2
"奥様! 奥様が血を!"
家政婦の悲鳴が、遠くに聞こえる。
救急車のけたたましいサイレンの音。揺れる視界の中で、理歌子は自分の命がゆっくりと流れ出ていくのを感じていた。
次に意識が戻った時、理歌子はVIP病棟の個室にいた。
医師が、厳しい口調で告げる。
"傷口が開いて、感染症を起こしかけていました。もう少し遅ければ、命に関わるところでしたよ。ご自分の体を、もっと大切にしてください"
理歌子は、黙ってその言葉を受け止めた。
窓の外は、冷たい雨が降っている。
十年前、両親が事故で死んだ日も、こんな雨の日だった。
胸が、ナイフで抉られるように痛む。
その時、病室のドアが勢いよく開かれた。
"理歌子!"
親友の有馬雪が、目を真っ赤にして飛び込んでくる。
彼女はベッドのそばに駆け寄ると、理歌子の蒼白な顔を見て、ぽろぽろと涙をこぼした。
"なんてこと……。どうして、こんなになるまで……"
雪は、怒りに震える手でスマートフォンを取り出した。
"鷹司健……あいつ、絶対に許さない!"
"やめて、雪"
理歌子は、力なくその手を制した。
"もう、終わったことだから"
"終わってない! あいつは、あなたが死にかけてる時も、あの女と一緒にいたのよ! なんで、まだあんな男を庇うの!"
雪の叫びが、病室に響く。
理歌子は、静かに首を振った。
"庇ってるんじゃない。……ただ、もう、どうでもいいの"
彼女は、窓の外に視線を向けたまま、ぽつりと呟いた。
"十年前、私が川に落ちて死にかけた時、助けてくれたのは、健さんだった"
雪が、息を呑む。
"そんな……初耳よ"
"ずっと、言えなかった。その恩があったから、私は三年間、どんな扱いを受けても耐えてきた。でも、もういいの。今回のことで、私の命は半分、彼に返した。だから、もう、貸し借りはない"
理歌子の声は、不思議なほど穏やかだった。
"これからは、鷹司健とは、何の関係もない"
数日後、理歌子は退院の手続きを済ませた。
雪に支えられながら、病院のロビーを歩く。
その時だった。
正面から、見たくもない二人の姿が現れた。
鷹司健が、武井萌歌穂を甲斐甲斐しく抱きかかえるようにして、こちらへ歩いてくる。
萌歌穂は、理歌子の姿を認めると、挑発するように健の腕に体をすり寄せた。
雪の体から、怒りのオーラが立ち上る。
"あの女……!"
今にも飛びかかりそうな雪の腕を、理歌子は強く掴んで引き留めた。
"健様、なんだか、めまいが……"
萌歌穂が、わざとらしく大きな声で甘える。
健は、すぐに心配そうな顔で彼女を抱きしめた。
"大丈夫か、萌歌穂。すぐに診てもらおう"
その冷たい瞳が、一瞬だけ、理歌子の顔を捉えた。
しかし、そこには何の感情も浮かんでいない。まるで、道端の石ころでも見るかのように、彼の視線はすぐに通り過ぎていった。
完全な、無視だった。
"人でなし!"
雪が、堪えきれずに叫ぶ。
しかし、理歌子は驚くほど冷静だった。
心臓の奥が、ちくりと痛んだ気はする。だが、それだけだ。
かつて彼に向けられていた愛情は、もう、ひとかけらも残っていなかった。
"理歌子……"
雪が、心配そうに理歌子を抱きしめる。
"大丈夫よ。私が、絶対にあなたを助け出すから"
"ありがとう、雪"
理歌子は微笑んだ。その瞳には、今まで見たこともないような、強く、澄んだ光が宿っていた。
病院の玄関を出ると、厚い雲の隙間から、一筋の光が差し込んできた。
"よし! 新生を祝して、美味しいものでも食べに行きましょ!"
雪が、明るく提案する。
理歌子は頷き、スマートフォンの銀行アプリを開いた。
残高、数万円。
鷹司家の嫁として、自由になる金はほとんど与えられていなかった。
経済的自立。それが、今の彼女にとって最大の課題だった。
"大丈夫よ、理歌子! 今日は私のおごりだから!"
理歌子の表情を察した雪が、胸を張る。
だが、理歌子は静かに首を振った。
"ううん。これからは、私一人で、ちゃんと向き合わなきゃいけないから"
交差点で、二人は別れた。
理歌子は、地下鉄の駅へと向かう。
その背中は、頼りなく見えるほど細い。しかし、その足取りは、驚くほどしっかりとしていた。
風が、理歌子の長い髪を揺らす。
彼女は、ハンドバッグの奥から、一枚の古い名刺を取り出した。
指先に力を込めて、その紙片を強く握りしめる。
これが、新しい人生への、第一歩だった。
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