
灰の中から立ち上がる:消された天才令嬢の帰還
章 3
雪が手配してくれた、サービスアパートメントの一室。
理歌子は、実家から運び込まれたままになっていた段ボール箱を開けていた。
埃をかぶった古い書類の山。その底から、鍵のかかった小さな鉄の箱が出てきた。
鍵はない。理歌子は、躊躇なく箱を床に叩きつけた。
何度か繰り返すと、歪んだ蓋が、音を立てて開く。
中に入っていたのは、一枚の黒いカード。そして、数枚の書類だった。
スイス銀行のプライベートバンクカード。
そして、特許権使用料の支払明細書。
彼女が十五歳で飛び級入学した大学で、研究に没頭していた頃に取得した、医療技術の特許だ。
結婚と同時に、その存在すら忘れていた。
明細書に記載された残高の数字を見て、理歌子は息を呑んだ。
数億円。
それが、彼女自身の力で稼いだ金だった。
眠っていた天才科学者としての記憶が、一瞬にして蘇る。
その時、スマートフォンが静かに振動した。
暗号化されたメール。差出人は、父が生前、最も信頼していた運転手の山田吾郎からだった。
添付ファイルを開く。
そこには、十年前の両親の事故車両の、不鮮明な整備記録のコピーがあった。
ブレーキ部分に、人為的な細工が施された痕跡。
そして、その整備記録にサインをした人物の名前。
――武井健一。
萌歌穂の父親。理歌子の叔父の名前だった。
全身の血が、逆流するような感覚。
理歌子は、その場に崩れ落ちた。
事故ではなかった。殺されたのだ。
復讐の炎が、胸の奥で静かに燃え上がった。
数日後。
研究所の面接に着ていくための服を買いに、理歌子は銀座の高級百貨店を訪れていた。
あるブティックで、仕立ての良いシンプルなスーツを見つける。
店員に声をかけようとした、その時だった。
"あら、これいただくわ"
赤いマニキュアが塗られた手が、横から伸びてきて、そのスーツをひったくった。
武井萌歌穂だった。
彼女は、限定品のバッグをこれ見よがしに揺らしながら、理歌子を嘲るように見下ろす。
"あなたのような人に、この店の服が買えるのかしら?"
"私が先です。それを、こちらに"
理歌子は、冷たく言い放った。
萌歌穂は、顔を歪める。
"何よ、その口の利き方! 店長! この女を追い出して!"
彼女は、鷹司健のブラックカードをカウンターに叩きつけた。
店員が、困惑した表情で理歌子を見る。
理歌子は、動じなかった。
彼女は、自分のバッグから、あのスイス銀行のブラックカードを、静かに取り出した。
店員がカードを受け取ろうとした、その瞬間。
"待て"
低く、冷たい声が、背後から響いた。
鷹司健だった。
彼は大股で歩いてくると、萌歌穂を庇うように自分の後ろに立たせる。
そして、ゴミでも見るかのような目で、理歌子を睨みつけた。
"俺の金を盗んで、こんな所で何をしている。恥を知れ。今すぐ萌歌穂に謝れ"
あまりに馬鹿げた言い分に、理歌子は笑いそうになった。
彼女の瞳に、嘲りの色が浮かぶ。
理歌子は、健と萌歌穂が見ている前で、店員に告げた。
"この店で、一番高いドレスをいただくわ。もちろん、このカードで"
決済は、一瞬で終わった。
支払い完了の電子音を聞いて、健の目に、わずかな驚きと疑いの色が浮かぶ。
萌歌穂は、嫉妬に顔を歪ませると、わざとらしくよろけて健の胸に倒れ込んだ。
"健様、足が……"
健は、すぐに萌歌穂を抱きかかえる。
去り際に、彼は理歌子に吐き捨てた。
"くだらない真似は、よせ"
二人の姿が見えなくなるまで見送った後、理歌子の心からは、最後の波紋も消え去っていた。
百貨店を出た理歌子は、すぐさま不動産仲介業者に電話をかけた。
仲介業者の車に乗せられ、理歌子は港区のタワーマンションの最上階に立っていた。
眼下には、東京の夜景が宝石のように広がっている。
"セキュリティは万全で、プライバシーも完璧に守られます"
理歌子は、その場で契約を決めた。
高額な値段を提示されても、彼女は眉一つ動かさない。
ブラックカードで、全額を一括で支払った。
新しい部屋の鍵を受け取った瞬間、理歌子は、この冷たい都会で、初めて自分の居場所を手に入れた気がした。
がらんとしたリビングの中央に立ち、理歌子は固く誓う。
両親の死の真相を、必ず突き止めてみせる。
彼女はスマートフォンを取り出すと、鷹司健の名前を連絡先から削除し、全ての着信を拒否する設定にした。
もう、二度と、彼に人生を掻き乱されたりはしない。
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