
契約妻を辞めたら、元夫が泣きついてきた
章 3
30分後。
桜奈は入浴を終え、湯気の残るバスルームで、ゆっくりと浴槽から立ち上がった。何気なく鏡を見ると、そこには自分の姿が映っていた。
肌はきめ細かく、滑らかで、まるで上質な温玉のようなぬくもりを宿していた。一点の曇りもないその肌は、まさに完璧だった。
目元はほんのり桃色に染まり、潤んだ瞳には淡く情熱が揺れていた。まるで春の池にたゆたう柔らかな波のように、見る者の心を引き込んでやまなかった。
二十五歳——女としては、老いの入り口に足を踏み入れた年齢かもしれない。けれど、彼女の顔には時の跡など一片も刻まれてはいなかった。
こんなにも美しい顔を持っていながら、彼女が自分を哀れみ、嘆くなんて、おかしな話だ。まるで恨みがましく嘆く妻のように見えてしまう..そんなふうであるべきではないし、そうなる必要もないのだ。
神奈はふと物思いに沈みながら、いつものように右脚を先に浴槽の外へ出した。
けれど――それが、よりにもよってケガをしている脚だったことを、彼女はすっかり忘れていた。
濡らさないようにと、その脚にはビニールラップを何重にも巻いていたせいで、血の巡りはとっくに悪くなっていた。感覚のなくなった脚に力が入らず、足をついた瞬間、身体はあっけなく滑っていった。
「きゃっ..!」
思わず声を上げながら、手を伸ばして何かをつかもうとしたが、空を切るばかりで、頼れるものは何一つなかった。
今にも床のタイルに激突しそうになったその瞬間――バスルームの扉が唐突に開いた。
現れたのは、スーツ姿の藤沢諒だった。視線がぶつかった。彼は一瞬きょとんとしたものの、すぐに表情を引き締め、二、三歩で彼女のもとへ駆け寄った。
桜奈は、腰に強く回された腕の感触を感じた次の瞬間、宙に浮いていた。彼に抱き上げられていたのだ――まるでお姫様のように。
まさかこのタイミングで藤沢諒が帰ってくるなんて思いもよらなかった彼女は、一瞬目を見開いたが、すぐに自分が裸であることを思い出した。はっとして顔を真っ赤に染めると、慌てて両手で胸元を隠した。
結婚してからというもの、心も体もさらけ出すことのなかった二人。まさか最初の「素顔の対面」がこんなかたちになるなんて――桜奈は恥ずかしさのあまり、つま先までぎゅっと力が入って縮こまってしまった。肌には、じんわりと淡い紅が広がっていく。
そんな彼女を見下ろしながら、藤沢諒はふっと唇の端を吊り上げた。「..別に、見るほどのものでもないけどな。」
挑発めいたその一言に、桜奈は羞恥と苛立ちが一気にこみ上げた。「さすがは藤沢社長、見飽きてるんでしょうね。私なんか、目にも止まらないでしょ。」
言い返しながらも、心の中では悔しさが膨れあがっていた。彼女は確かにCカップ。豊満とまでは言わないけれど、あの「板みたいな」高橋光凜に比べたら、圧倒的に優位なはず。前も後ろも、それなりに張りがあって、全体のバランスだって悪くない――彼女は負けてない。絶対に。
けれど――愛されていなければ、どんなに整った体つきだって、相手の目には映らない。心から想う人の「洗濯板」のほうが、よほど魅力的に映るものだ。
藤沢諒はバスルームの扉の後ろに掛かっていたバスローブを無造作に引き寄せると、それを桜奈の身体にかけた。「‥何を、馬鹿なこと言ってるんだ。」
「神崎桜奈、お前..さっき離婚届を送らせたの、まさか俺を呼び戻して――裸を見せるためか?」 信じられないとでも言うように彼は言葉を続けた。「俺が忙しくて戻れないって、ちゃんと伝えたよな?それでも、わざとこんなふうに仕掛けてくるって..お前、どこまで俺に食ってかかるつもりなんだ?」
彼の眉間に深く刻まれた皺を見た瞬間、桜奈の胸の奥に押し込めていた怒りが、また一気に燃え上がった。 彼はいつだってそう――自分に対して、ひたすらに冷たくて、面倒くさそうで、少しの思いやりすら見せてくれない。
彼女は軽々しく「離婚」や「別れ」を口にするような女じゃない。結婚して二年以上――初めてのことだった。それなのに、彼は心配のひとつもせず、まるで彼女がただ駄々をこねているだけのように扱った。まるで、自分の気持ちなんて最初から取るに足らないものだと決めつけているみたいだった。
脚の痛みも忘れて、彼女は必死に身体を捩りながら、怒りをにじませた声で言った。「..下ろして。」
藤沢諒は彼女の言葉に耳を貸さず、視線を彼女の脚へと落とした。ビニールラップでぐるぐるに巻かれた足を見て、眉をひそめた。「…脚、どうした。 まさか、これがわざわざ俺を騙して呼び戻した理由か?」
その一言に、桜奈は思わず噴き出しそうになった。けれど、そこに笑いの色はなかった。ただ呆れと皮肉が混じった、乾いた笑み。
――ああ、やっぱり。この人にとって、私はただの「構ってちゃん」に見えるんだ。関心を引けなかったからって、哀れっぽく仕掛けて、注目を浴びようとしてる..そんなふうに思ってるんでしょう?
心の中が冷たく凍りついていくのを感じながら、彼女は無表情のまま口を開いた。「ちょっとした美容の施術を受けただけ。濡らしちゃいけないって言われたの。」
「急にそんなこと、どうして?」 藤沢諒は深く追及することもなく、そのまま彼女を抱き上げて外へと歩き出した。口調は軽く、何気なく問いかけた。
彼の体は広く厚みがあり、薄いシャツ一枚越しでも、熱を帯びた体温や盛り上がった胸筋の輪郭がはっきりと伝わってくる。
その親密で曖昧な空気が、すべてを終わらせようと心に決めていた桜奈にとっては、ひどく苛立たしいものだった。
思わず、声が一段高くなった。 「ふん、藤沢社長がこんな些細なことに関心を持つなんて、いつからそんなご趣味が?」
桜奈の言葉には、かすかな棘が混じっていた。藤沢諒がそんな彼女の態度を見るのは初めてだったが、意外にも面白がっているようで、気にした様子もなく応じた。「君は僕の妻だ。当然、気にかける。」
「そう?」桜奈はふと口をつぐみ、それから小さく息をついた。声にわずかな哀しみが滲んだ。「でも..私は一度も、自分があなたの妻だなんて思えたことはないわ。」 「きっと――たとえ私が死んでも、あなたはすぐには気づかないでしょうね。」
だって、あのとき――藤沢諒は彼の初恋の人のそばにいたじゃない。私がどんなに助けを求めても、耳を貸すことすら面倒くさそうだった。違う?
その言葉を聞いた藤沢諒は、わずかに目を見開き、次の瞬間、苛立ち混じりの笑みを浮かべた。「なんだよ、急にそんな怒ることか? 午後ちょっと用事があって、電話に出られなかっただけだろ? 神崎桜奈、お前さ..少しは加減ってもんを知れよ。最近俺が優しくしすぎたから、調子に乗ってんじゃないか?」
桜奈は、ふと動きを止めた。調子に乗ってる、だって?
そうだ。彼らの関係は、そもそも対等な「夫婦」なんかじゃなかった。彼の目に映る彼女は、金のために結婚を売り渡した女――ただ、それだけの存在。
本来なら、お互いに欲しいものを得るだけの契約だった。なのに、彼女の方だけが..本気になってしまった。
恋愛では、先に心を動かした方が負け。その理屈が、痛いほど胸に突き刺さった。
藤沢諒の冷めた顔が、まるで自分が一方的に騒ぎ立てているだけかのように見えた。その瞬間、強い息苦しさが、胸の奥から一気にこみ上げてきた。
「下ろしてって言ってるの!」顔を背けたまま、桜奈は苛立ち混じりに言い放った。
だが藤沢諒は応じることもなく、そのまま彼女を抱えたまま、ベッドの脇まで進むと、不意に、何の前触れもなく彼女を手放した。
重力を失った一瞬の浮遊感。心臓がひやりと縮こまり、思わず桜奈は彼にしがみついた。
そのまま、ふたりして大きなベッドに倒れ込んだ。彼女の身にまとったバスローブは頼りなく、少しでも動けばすぐにでも滑り落ちそうなほど、かろうじて体を覆っているだけだった。
藤沢諒は彼女の頬の横に片手をつき、上体を半分起こして見下ろすように覆いかぶさった。口元には、笑っているのかいないのか分からない、微かな弧を描いていた。「さっきは放せって言ってただろ?」 「それなのに、今度は自分からしがみついてくるなんて..どういうつもり?」
彼の目は、深い色をたたえた切れ長の双眸。瞳の奥は異様なほど澄んでいて、まるで星屑を湛えた湖面のように、妖しく輝いていた。
その星のような光の中に、桜奈は自分の姿を見た。
――こうして見つめられるたびに、彼は本当は誰よりも優しくて、誠実な人なんじゃないかと、錯覚してしまう。
――でも、その優しさは、すべて高橋光凜に向けられたもの。桜奈に残されたのは、ただの幻想だった。
「..くだらない」感情の温度を感じさせない声でそう吐き捨て、桜奈は身体を起こそうともがいた。
だが、そのとき――無意識に触れてしまった何かに、はっとする。次の瞬間、下腹部に明確な感触が走った。彼の身体の一部が、場違いな反応を示していたのだ。
「動くな。」頭上から低く、掠れた男の声が降ってきた。 「これ以上やられたら..本当に、止まらなくなる。」
その言葉に、桜奈は心の中で毒づいた。
――やっぱり男なんて、所詮は下半身で動く生き物。気持ちがなかろうが、本能には勝てないってことね。
とはいえ、藤沢諒に逆らう勇気もなく、彼を刺激しないように顔をそらし、全身を強張らせて微動だにしなかった。
胸の奥には、じわりとした苛立ちが滲んだ。堪えても、堪えても、どうしても言わずにはいられなかった。 「見どころなんて、ないんじゃなかったの?それなのに..藤沢社長ってば、こんな時でも反応するんだ。そんなに..口に入れば何でもいいタイプだったっけ?」
言い終えた瞬間、自分の言葉の鋭さに、内心で顔をしかめた。――敵を傷つけたつもりが、それ以上に自分の心をえぐっていた。
桜奈は、言葉を放った直後にじわりと後悔の念を覚えた。けれど、藤沢諒は怒るどころか、逆にふっと笑みを浮かべた。 「君は俺の妻だ。変えようのない事実なら、いっそ受け入れるのもアリだと思ってさ。何年も前に迎えた嫁を、ただ置いておくだけなんて..さすがに、もったいないだろ?」
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