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泣かないで、もうあなたのものじゃない の小説カバー

泣かないで、もうあなたのものじゃない

結婚から二年が過ぎ、ようやく新しい命を授かったことを知ったその日、幸せの絶頂にいた彼女を待っていたのは夫からの非情な離婚宣告だった。予期せぬ裏切りと渦巻く陰謀によって窮地に追い込まれた彼女は、お腹の子を守るために必死の抵抗を試みるが、かつて愛した夫が助けの手を差し伸べることはなかった。深い絶望に打ちひしがれた彼女は、すべてを捨てて異国の地へと姿を消す。それから数年の月日が流れ、社会的な成功を収め、誰もが羨む地位を手にした夫。しかし、その胸の奥底には、決して忘れることのできない妻の名前が刻まれていた。後悔に苛まれ続けていた彼は、ある結婚式の場でついに彼女と再会を果たす。大勢の参列者が見守る壇上で、彼はかつての傲慢さを捨てて跪き、赤く潤んだ瞳で彼女を縋るように見つめた。「その子を連れて、一体誰のところへ行くつもりだ……」と。失われた愛と隠された真実が交錯する、切なくも激しい再会の物語。
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3

その言葉を聞いた瞬間――安澄の顔からは一気に血の気が引き、まるで氷のように青ざめた。

尚行は、何のためらいもなく、冷たく言い放った。「子どものことは……よく考えてくれ」なぜ、彼はここまで冷酷でいられるのか?

「どうして……?」 安澄は信じられないという表情で首を振った。「尚行……あなたが子どもを望まないのは分かる。でも、どうしてこんなひどい言い方をしなきゃいけないの?」

その問いかけにも、尚行の視線は冷たく沈んだままだった。そして、低く響く声で言い放つ。「私たちはビジネス上の結婚だ。感情で結ばれてるわけじゃない。子どもなんてできても、ただの負担にしかならない」

その言葉に、安澄は目を伏せた。尚行を見ることが怖かった。けれど、見えない刃で心臓を切り裂かれたような痛みが胸の奥に広がっていく。

やがて、静かに唇を開いた。「……安心して。私は、あなたの子どもなんて産まないわ」

その言葉とは裏腹に、彼女はすでに決心していた。この命は、自分の手で守ると。誰のものでもない、彼女自身のための決断だった。

この子が成長したら――父親などいない、と伝えるつもりだった。

尚行は眉をひそめながら、淡々と答えた。「そう考えてくれるなら、それが一番だ。 具合が悪いなら無理をするな。しばらくは仕事を休んでいい」

それだけ言うと、彼はさっさと寝室を出て行った。

翌朝、安澄は何事もなかったかのように会社に姿を現した。

もう、彼に甘えるつもりなどなかった。これからは一人で子どもを育てていく――その覚悟を胸に秘めて。

そのためには、何よりもお金が必要だった。彼女が働いているのは、古杉グループ。

大学卒業後、尚行のそばに少しでも近づきたくて、秘書部に自ら志願して入社したのだった。

しかし、彼らの結婚は公にはなっていない。尚行のアシスタント・石井新一や一部の重役を除いて、誰もその事実を知らない。

エントランスから秘書部のフロアに足を踏み入れた瞬間、安澄は何人もの社員が会議室の前に集まって話し込んでいるのを目にした。

「わあ……あれが、古杉社長の“彼女”か」

「彼女っていうか、正妻だよ。二年前、社長がどれだけ落ち込んでたか、知らないの?」

「二人、小学校の同級生だったんだって」

「さっきの会議、社長が怒らなかったのって、あの人が同席してたからじゃない?」

「それにね、上野さんって、今後は社長専属の法律顧問になるらしいよ。本当にお似合いの二人だよね!」

……

――正妻。心の中の“彼女”。その言葉の一つ一つが、鋭い刃のように安澄の胸に突き刺さった。

社員ですら覚えているのだ。二年前、尚行が佳奈をどれだけ愛していたかを。それに比べて、自分はいったい何なのか。

――本当に、何者でもなかったのだ。

安澄は唇を噛みしめ、爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。

聞かないように。見ないように。そう心の中で繰り返しながら、平静を装ってデスクに戻り、黙々と仕事を続けた。

だが、耳に入った言葉たちは、魔法の呪文のように繰り返し脳内で反響し、意識を侵食していった。

――そして突然、胃が裏返るような感覚に襲われた。

彼女は椅子から立ち上がるや否や、トイレへと駆け込んだ。

誰にも気づかれないように、水の音を最大にして、吐き出した。

すべてを出し切ってから、冷たい水で顔を何度も洗い、鏡の前で異常がないことを確認してようやく外に出た。

その帰り道、会議室の前を通りかかると、ドアが半開きになっていた。

中が、見えた――そこに座っていたのは、尚行と、そして上野佳奈だった。

佳奈は尚行の隣に寄り添うように座り、少し体を前に傾けて、白い首筋と美しい鎖骨をあらわにしていた。

彼女の声は甘く柔らかく、視線にはどこか艶めかしさすら漂っていた。

二人の距離はあまりにも近く、まるで恋人同士のようだった。

いや――あれが“本物の関係”なのだ。

安澄は、自分が場違いな存在に思えた。

この結婚において、彼女は最初からずっと部外者だったのだ。

静かに、涙が頬を伝って落ちていった。

彼女はその場を去ろうと身を翻したが、足元の鉢植えにぶつかってしまい、鈍く響く音がフロアに広がった。

外の騒ぎに気づいた尚行が顔を上げ、目が合った。

悔しさと、恥ずかしさが入り混じったその瞬間――

尚行は席を立ち、すぐに部屋から出てきた。続いて佳奈も立ち上がり、彼のあとを追った。

「どうしてここにいる?」

尚行の声には、明らかな不機嫌さがにじんでいた。

その様子から、佳奈はすぐに安澄の正体を察したに違いない。

だが、彼女はわざと気づかないふりをして、甘い声で問いかけた。

「彼女 ……誰?」

――そう。彼女は“誰”なんだろう?安澄自身、尚行の心の中での自分の存在を知りたかった。

だが――佳奈の微笑には、明らかな侮蔑と挑発が浮かんでいた。それを察してか、尚行は不快そうに眉をひそめ、低く言った。「……私の社員だ」

――社員?

その一言が、安澄の耳に冷たい嘲笑のように響いた。

そう。

彼女は“誰でもない存在”――

ただの従業員に過ぎなかった。尚行はそれ以上何も言わず、その場を立ち去った。

佳奈も数秒間安澄を見つめたあと、皮肉な笑みを浮かべ、尚行のあとを追った。

二人の背中を見送る安澄は、まるで別の世界に取り残されたような感覚に襲われた。

――その夜。安澄は、ぼんやりとした意識のまま仕事を終えた。そんな彼女に、思いがけず電話がかかってきた。相手は、清水里子――彼女の祖母だった。

「安澄ちゃん……おばあちゃんも、もう年だし……あまり時間は残されてないのよ」

「最後の願いは、あなたが幸せな結婚をして、子どもを産んでくれること……」

「いつになったら彼氏を連れて帰ってくるの?」

受話器の向こうから聞こえる、静かなつぶやき。

その言葉を聞いた瞬間、安澄の鼻の奥がつんと痛んだ……そうだ。

彼女の結婚のことを、最も身近な祖母にさえ伝えていなかったのだ。

結婚当時、尚行はこう言っていた。「取締役会以外に知られる必要はない。できるだけ人に言わないようにしてくれ」

――彼は、最初から分かっていたのだろうか。佳奈が、いつか必ず戻ってくると――

そう信じていたのかもしれない。いや、むしろ確信していたのだ。だからこそ、彼は最初からそのための道を整えていた。佳奈が戻ってきたとき、すぐに隣に立たせられるように。

安澄は、いつ電話を切ったのかさえ思い出せなかった。

ただ、ぼんやりとした記憶の中で、祖母に何かを約束していたことだけが残っている。「今週の土曜日、彼氏を連れて帰るから」自分の口から確かにそう告げた。祖母の喜ぶ顔を見たくて、思わずそう言ってしまった。

けれど……彼女は、いったい誰を連れて行けばいいのだろう?

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