
冷徹な高嶺の花は、身籠ったバツイチ女を逃がさない
章 2
「あなたたち、ここで何をしているの?」
その時、聞き慣れた澄んだ柔らかな声が響いた。
雲野美緒はスマホを手に、廊下の突き当たりにあるテラスから扉を押して出てきた。
その目には驚きが浮かんでいたが、表情はいつもと変わらなかった。
篠原航平と白石宏樹は素早く視線を交わし、ともにほっと息をついた。
美緒がどれほど家庭を大切にし、家族を重んじているか、彼らは誰よりもよく知っていた。
もし彼女が今の会話を耳にしていたなら、これほど平然としていられるはずがない。とっくに泣き崩れ、半狂乱になって大騒ぎしているはずだからだ。
航平は薄い唇に笑みを浮かべ、前に出て彼女のバッグを受け取った。
「何でもない。来たなら、どうして中に入らなかった?」
彼は整った美しい顔立ちをしており、深いグレーのオーダーメイドの高級スーツが、すらりとした長身を引き立てていた。その気質は群を抜いていた。
雲舟テクノロジーはこの数年で急成長し、時価総額はすでに2000億を超えている。篠原航平は27歳にもならないうちに、海崎市のテック業界の新鋭として名を連ねていた。
全身から、成功した男だけが持つ目に見えない魅力が漂っていた。
彼はほんの少し身を低くし、少しばかり優しさと思いやりを見せるだけで、大抵の女はイチコロだった。
美緒の両手は氷のように冷たく、かすかに震えていた。航平は明らかにそれに触れていたのに、何ひとつ気づかなかった。
(美緒、こんな偽りの優しさに、いったい何の価値があるというの?)
(――もう、目を覚ましなさい)
美緒は淡く笑った。「電話がかかってきたから、あなたの仕事の邪魔になるかと思って、テラスに出て話していたの」
航平の表情はすっかり緩んだ。
宏樹は険しい顔で説教した。
「専業主婦になったのなら、会社にちょくちょく顔を出すのは控えなさい。たとえ来るにしても、事前に電話してアポイントを取るべきだ。でなければ航平の迷惑になるだろう? 物事の段取りがまるでなっていない。君の姉なら、絶対にこんなことはしない」
もしそれが白石美桜だったなら、彼らにとっては驚きではなく喜びになったのだろう。もちろん、何をしても「気が利いている」と受け取られるのだ。
美緒は皮肉めいた思いを胸に、うなずいた。「おっしゃる通りです」
宏樹は眉をひそめた。以前なら、こう言えば美緒は必ず言い返してくるか、自分が美桜に劣らないことを証明しようとして、わけのわからないことをしたものだった。
今日はどうしてこんなに素直なんだ?
けれど、そう素直に受け流されると、宏樹はかえって暖簾に腕押しのような虚しさを覚え、どこか見下されているような不快感すら抱いた。
きっと、美緒のこの、いつまで経っても場にふさわしくなれない感じが、どうにも鼻につくのだ。宏樹はそう結論づけた。
彼は眉を寄せて言った。「君たち、しばらく実家に顔を出していないだろう。明日、一緒に帰って夕飯を食べなさい。ちょうどうちの両親も相談したいことがあるみたいだし」
航平は言った。「わかりました。美緒を連れて帰ります」
宏樹はそれ以上、美緒に一瞥もくれず、大股で去っていった。
航平は美緒を連れてオフィスに入り、振り向いて彼女を抱きしめた。
「どうして急に来たんだ? うちの奥様は、俺が恋しくなったのか?」
慣れ親しんだシダーの香りが押し寄せてくる。美緒は手を上げて彼の胸を押さえ、目を伏せて、彼の手にあるバッグを見た。
中には、あの妊活前の健康診断票がまだ入っていた。けれど、もう取り出す必要はなかった。
彼女の拒絶を示す身体の反応はあまりにも明らかで、航平は目を伏せて彼女を見つめた。
「何を拗ねているんだ?」
美緒は顔を上げて彼を見た。一瞬、本気で平手打ちをして、その偽りの優しさを粉々に叩き壊してやりたいと思った。
けれど、破れかぶれになっても何も解決しない。
彼女は離婚する。
白石家を離れる。
そして、当時、美桜が人を雇って自分を陥れた証拠を探し出す。
遅すぎたとしても、彼女は自分のために、あるべき筋を通すのだ。
「私は本当に、何もかも美桜に及ばないの?」
航平は一瞬固まった。彼女が気にしていたのは、そのことだったのか。
彼は手を上げ、彼女の額を軽く小突いた。「君は彼女と比べる必要なんてない」
その言葉には、二通りの解釈があった。
君は彼女にまったく及ばない。
君は唯一無二の存在だ。
以前の美緒なら、きっと2つ目の意味として受け取っていただろう。けれど今の彼女には、航平が1つ目の意味で言っているのだと、はっきりわかっていた。
彼女は本当に気づいていなかった。航平が、これほど言葉の使い方に長けていたなんて。
その時、オフィスの扉が形ばかりに二度ノックされ、須藤心結がコーヒーを2杯持って入ってきた。
美緒はその流れで航平の腕から抜け出し、ソファへ向かって腰を下ろした。
心結は1杯のコーヒーを美緒の前のテーブルに置き、もう1杯を持ち上げると、腰をくねらせながら航平の前へ歩いていった。
「篠原社長、コーヒーです」
航平が受け取ると、心結の指が男の手のひらをくすぐるようになぞった。
「須藤秘書、だったかしら?」美緒が不意に口を開いた。
心結の全身がこわばり、航平も白磁のカップの持ち手を握る指に力を込めた。
彼が視線を上げると、美緒はにっこりと笑った。
「フルーツジュースに替えてほしいだけよ。私、妊活のために漢方薬を飲んでいるから、コーヒーはNGなの。……あなたたち、どうして急にそんなに緊張しているの?」
航平は言った。「替えてこい!」
彼の眉目は沈み、冷たさに警告を含んだ視線が心結へ向けられた。
心結は顔を青ざめさせ、唇を噛んだ。「申し訳ありません、奥様。すぐにお替えいたします」
彼女はコーヒーを持ち上げ、慌ただしく出ていった。
美緒はその背中を、何か考え込むように見つめていた。やがて航平の大きな体が、その視界を遮った。
彼女は小さく笑った。「お茶出しすらまともにできないなんて。篠原社長も、いつからインターンに対してこれほど甘くなったのかしら?」
航平の表情が少し緩んだ。
さっきは彼女の様子がおかしいと感じていたが、今見る限り、ただ女同士で嫉妬して張り合っているだけで、何かに気づいたわけではなさそうだった。
彼は身をかがめ、ソファの背もたれに手をついて近づき、からかうような目をした。
「嫉妬しているのか? 支援している学生が実習に来ているだけだ。まだ若くて物を知らないんだ。そんな小娘を相手に本気で気にするのか?」
小娘?
航平は忘れているのだろうか。彼女だって今年、まだ22歳にすぎない。けれど彼女は18歳の頃から彼のそばにいて、彼を助け、彼のために困難を切り開いてきた。
あの頃の雲舟テクノロジーは、まだ10人にも満たない小さなチームだった。
彼女は彼の小さな秘書から始め、つまずきながら成長し、退職前にはすでに1人で仕事を任せられる広報部の責任者になっていた。
ある時、彼女が顧客に難癖をつけられ、隠れて泣いていた時、彼は何と言ったか。
「美緒、お前が早く社会に出ると決めた以上、叩かれる覚悟はしておくべきだ。お前のミスも弱音も、誰も甘やかしてなんてくれない」
笑い話にもならない。彼女は、彼のあの厳しい要求が本当に自分のためであり、自分の成長を促すための愛の鞭だとばかり思い込んでいたのだ。
結局、彼は人を労わることを知らないわけではなかった。ただ、労わる相手が彼女ではなかったというだけの話なのだ。
……
大夏ビルを出た時、美緒はようやく全身の力を抜かれたようになり、力なく道端のベンチに崩れるように腰を下ろした。
彼女は頭を下げ、小さな顔を両手の中に埋めた。
すべての冷静さが退き、悲しみと憎しみが毒液のように、少しずつ彼女の砕けた心をむしばんでいった。
太陽は少しずつ西へ傾き、残照が消えていく。秋風が冷たい雨粒を巻き込んで吹いてきた。
枯れ葉が舞い落ち、行き交う車に踏み潰され、泥の中へ沈んでいく。その様は、彼女が執着してきた愛情と家族への思いのようだった。
どれほど時間が経っただろうか。美緒の震える体は、ようやく少しずつ落ち着いていった。
彼女は顔を上げ、スマホを取り出し、ためらいなく1本の電話をかけた。
相手はすぐに出た。美緒は口を開いたが、何度も声が出なかった。
『美緒か? 聞こえてるよ』
聞き覚えがあるようで、どこか懐かしい、澄んだ温かな声が響いた。
美緒の目頭が熱くなった。『先輩、ごめんなさい。こんな遅くに邪魔して。 聞きたいんだけど、eVTOLプロジェクトの研究、私はまだ研究室への参加を申請できる?』
美緒は息を止めた。頬が熱くなり、少しの自信もなかった。
彼女は15歳でA大学の少年班に入り、かつては航空機設計専攻の天才少女だった。
大学3年の時には、複数センサー融合による障害物回避技術で突破口を開いていた。データ融合アルゴリズムによって、ドローンの障害物回避の正確性と信頼性を高めることができたのだ。
彼女はその技術を火災現場の偵察と監視に応用し、設計したドローンは当時きわめて先進的な捜索救助用ドローンとなり、教授たちを大いに驚嘆させた。
教授は彼女のために特許を申請し、彼女を修士・博士一貫課程に進ませただけでなく、自分の最後の弟子にもした。前途は明るかった。
美緒はその特許を国に寄贈した。あの頃の美緒は、教授が最も誇りに思う学生だった。 彼女はさらに先輩たちとともにアオバフライトを創業し、軽量な空撮を主力に据えた。未来は輝いていた。
けれど4年前、彼女はすべてを顧みず、夢も学業も事業も投げ捨て、教授の期待すらも裏切って、航平のただの秘書に成り下がってしまったのだ。
教授は彼女を諦めなかった。2年前には自ら西城市から海崎市へ飛び、最新設立されたeVTOLプロジェクト研究室に参加するよう彼女を熱心に誘ったが、彼女は再び断った。
けれど今は……。
彼女は後悔していた。本当に、後悔していた。
唇を血がにじみそうなほど噛みしめた時、先輩の熱意に満ちた、少しのわだかまりもない声が聞こえた。
『もちろんだ!言っただろう。君が戻ってくる気になってくれさえすれば、僕たちはいつでも歓迎する!』
『いつ来る? 今すぐ航空券を取るよ。明日だと、さすがに急すぎるかな……』
美緒の心に温かさが戻った。『でも、教授は……』
『ああ、あの爺さんの性格、君だって知ってるだろ? まずはこっちに来て、彼を驚かせてやれ!俺が保証するよ。彼が君を見たら、きっと怒りなんて全部吹き飛ぶ。どうしてもだめなら、君の手料理を1回振る舞ってやればいい。それでもだめなら2回だ』
美緒は涙の中で笑った。『うん。毎日ご飯を作ってもいい!先輩、私、こっちであと一か月くらい、少し片づけなきゃいけないことがあるの。それでもいい?』
『もちろんいい。待ってる』
『先輩、ありがとう!』
電話を切ると、美緒の胸にのしかかっていた巨石が、まるでどこかへ動いたようだった。
一か月――。彼女は離婚してこの街を離れ、彼女自身の輝かしい花道へと歩み出すのだ。
彼女は顔を上げた。目の前は澄み渡っていた。
ちょうどその時、1台の黒いベントレーが少し離れたところを通り過ぎた。
後部座席の窓は半分開いており、若い女が艶めかしい身のこなしで、全身に気品をまとった男の膝の上にまたがり、秋の夜の寂しさの中で激しく口づけを交わしていた。
おすすめの作品





