
元妻に跪く冷徹社長
章 3
床に突っ伏したまま、遠野詩子は喉の奥に広がる生臭い血の味を飲み込み、必死に体を起こした。
「何しに帰ってきたの?」
こんな時間、病院で最愛の浅野莉子に付き添っているはずではなかったか?
女の血の気を失った冷ややかな顔を一瞥すると、芥川浩介はくるりと向き直り、優雅な仕草でソファに深くもたれかかった。そのままふんぞり返るように詩子を見据える。「莉子は国内でのキャリアが始まったばかりだ。今日、産婦人科を訪ねたことがもし漏れたら……」
「私に何の関係が?」
詩子は目を細めて嘲笑を浮かべた。「流産したばかりの私が、あなたの愛人のために体裁を繕ってやれと?」
道理で芥川浩介が最愛の人を置いてまで戻ってきたわけだ。今日のことを言いふらされ、愛する女のキャリアに傷がつくのを恐れたのである。
詩子の口から出た「愛人」という言葉に、浩介の声が瞬時に冷え切った。「何を馬鹿なことを言っている?」
詩子は浩介の顔を睨みつけ、言葉を区切るように言い放った。「言ったはずよ。浅野莉子がそんなに体裁を気にするなら、そもそも愛人になどならなければいい。婦人科の病気になんてなるべきじゃないし、わざわざ公立病院に来るべきでもなかったわ!」
浩介は目を細めた。全身からほとばしる怒気が、リビング全体の空気を数度も押し下げるかのようだ。 「俺と結婚した時、俺の心に莉子がいることは分かっていたはずだ。それなのに君は、俺が昏睡している隙に、おじいちゃんに取り入って結婚を承諾させた」
「君に莉子を愛人呼ばわりする資格がどこにある?」
詩子の口元に浮かんだ笑みが、苦々しいものに変わる。「ええ、そうね。最初から私が間違っていたのよ」
三年前、芥川浩介は交通事故に遭い、ずっと昏睡状態だった。
浅野莉子はその時、密かに国外へ去った。
あの時、詩子は浅野莉子が彼を見捨て、二度と戻らないものと思い込んでいた。だからこそ芥川匠に、一生彼の面倒を見るから結婚させてほしいと懇願したのだ。
半年近く献身的に介護を続けた末、浩介はようやく意識を取り戻した。
今の彼女を蝕む末期の胃癌は、当時の不規則な介護生活と無関係ではなかった。
あの頃は愚かにも、誠意を尽くせば彼の冷たい心もいつか温められると信じていた。だが現実はどうだ。体は病に蝕まれ、お腹の子も失った。
法的な妻である自分が、浅野莉子を愛人呼ばわりしただけで、夫からこうして説教される始末だ。
やはり、石でできた心は温まらないのだ。
そこまで思い至り、詩子は唇の端を歪め、浩介に向かって乾いた笑みを浮かべた。「もういいわ。二人の望み通りにしてあげる」
そして、自分自身をも解き放つのだ。
この結婚生活はとうに破綻していた。ただ彼女一人が、必死に支えてきたに過ぎない。
詩子の瞳の奥に宿る絶望と、すべてを諦めたような静けさが、浩介の心を妙に苛立たせた。「どういう意味だ?」
「芥川浩介」
哀れみは心の死にまさるものはなし。
これほど心が冷え切ってしまうとは。詩子自身、思いもしなかった。五年間の想いが終わりを迎える今、驚くほど冷静で、涙の一滴すら流れない。「離婚しましょう」
「離婚?」
浩介はしばし黙り込み、やがて冷ややかに笑った。「遠野詩子、また何の真似だ?」
「子供を堕ろしたかと思えば、すぐに離婚を切り出す。もし俺がこれに応じたら、君はまたおじいちゃんのところへ泣きつきに行くつもりだろう?」
「私、おじいちゃんに告げ口なんてしたことないわ。今までも、これからも」
詩子は薄く笑うと、ためらうことなくローテーブルの引き出しから離婚協議書を取り出した。
その時、男の携帯電話が鳴った。
「莉子」
浩介は血相を変えて立ち上がった。「どうした?」
「わかった、すぐに戻る!」
言い終わるやいなや、男は通話を切り、ソファの上着をひっつかんで玄関へと向かった。
手の中の離婚協議書に目を落とし、詩子は眉をひそめて叫んだ。「サインしてから行って。数秒もかからないでしょう」
しかし男は詩子の言葉など聞こえないかのように、ドアを乱暴に閉め、出て行ってしまった。
詩子はしばし目を閉じて沈黙していたが、やがてペンを取り、離婚協議書の最後のページに自らの名前を書き込んだ。
離婚協議書をローテーブルに放り投げ、詩子はもこ助を抱きかかえると、二階で荷物をまとめながら、凪咲市に住む親友の星川美月に迎えを頼む電話をかけた。
もう、はっきりと分かった。
芥川浩介の目には、自分は浅野莉子の髪の毛一本にも及ばない存在なのだ。
浅野莉子が電話一本で痛みを訴えれば、芥川浩介はすぐに駆けつけ、自分のことなど完璧に無視するのだ。
自分はこの男のために心身ともにボロボロになり、余命三ヶ月の末期癌患者となったというのに。
だからこそ、残された三ヶ月を、こんな希望のない結婚生活に費やしたくはなかった。
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