
人違いから始まった、冷徹社長の身も心も溶かすような束縛愛。
章 3
空はあっという間に暗くなった。
LINEの「三浦正俊」からは、忘れ物を取りに来いという連絡も、由梨が送ったメッセージへの返信も一切ない。
由梨はスマートフォンの画面を穴が開くほど見つめながら、胸の奥で煮えたぎる苛立ちを必死に押さえ込んでいた。
夜は暗いし、人もいない。これ幸いとまた美味しい思いをするつもりなんじゃ……。
昨夜あれだけ好き勝手されたというのに、まだ満足していないというのか。
今すぐすべてを放り出し、踵を返して帰ってしまいたい。
だが――。
盛景グループの採用基準は厳しい。自分はまだインターンの身だ。ここで上司の機嫌を損ねれば、契約を切られるのは目に見えている。
由梨はじっと耐えながら待ち続け、その間、頭の中では思いつく限りの刑法の条文を何度も反復していた。
そして最後には、自分自身に言い聞かせるようにして気持ちを落ち着かせる。
結局のところ、正俊は直属の上司だ。自分が将来正社員になれるかどうかも、彼の評価次第と言っていい。
それに昨夜は、酔った勢いで自分から誘ってしまったようなものだ。仮に警察へ訴えたところで、事件として扱われる可能性は低いだろう。
由梨は運が悪かったのだと半ば諦め、夜九時を過ぎても待ち続けた。やがて、革靴が床を打つ足音が近づいてくる。
「おや、こんな時間まで会社に人が残っていたのか?」 正俊のどこか軽薄な声が、無人のオフィスエリアに響き渡る。その響きは妙に耳につき、由梨の背筋をぞくりとさせた。
由梨はびくりと肩を震わせたものの、平静を装って口を開く。「三浦さん、やっと来てくださったんですね」
正俊は目を丸くした。「もしかして、僕を待ってたの?」
――分かりきったこと聞かないでよ。
由梨は怒りを押し殺しながら返事をしようとした。そのとき、正俊がふと思い出したように尋ねる。「そういえば、さっき何かぶつぶつ言ってなかったか?」
このインターン生はかなりの美人だ。入社初日から目をつけていた。 外見はふわふわな癒やし系なのに、性格は無機質で、まるで手応えがないのだ。
会社の親睦会が終わったあとも帰らず、一人でここに残っている。いったい何をしていたのだろう。
「刑法の条文を暗唱していました!」由梨は思わず歯を食いしばって言い返した。だが口にした瞬間、しまったと思う。
正俊は付き合った女性には優しいと聞く。だがもし今、怒って逆上されたらどうするのか。
そんなことを考えながら必死に取り繕おうとした、そのときだった。くすり、と小さな笑い声が聞こえた。振り向くと、あの社長様が立ってこちらを見ている。
なにあの脚の長さ、なにあの整った顔立ち。ただドア枠に寄りかかっているだけで、それがあまりにも絵になりすぎて、一枚の世界名画がそこにあった。 彼の口元には薄い笑みが浮かんでいる。だが美形というのは不公平なもので、どんな表情をしていても様になる。
由梨の心臓がどくりと跳ねた。自分の中の「イケメン基準」が、またひとつ更新された気がする。
正俊はそんな彼女の視線に気づき、軽く舌打ちした。
やはりこの従兄には敵わない。社内で誰よりも近寄りがたい美人ですら、こうして見惚れてしまうのだから。
その舌打ちで、由梨は我に返った。
あれは会社の社長だ。自分が憧れている存在であり、給料を払ってくれる雇い主でもある。 そんな相手をぼんやり見惚れていただなんて。本気で会社を辞めるつもりなのだろうか。
――いや、今はそれどころじゃない。まずは自分の荷物を取り戻すことが先決だ。
由梨は慌てて視線を正俊へ戻した。「三浦さん、昨夜の件なんですが……」
最後まで言い終える前に、征之が不意に口を開く。「正俊。車を回してこい」
征之には専属の運転手がいる。だが正俊は反論ひとつできず、素直に外へ向かっていった。
広いオフィスフロアには、由梨と征之だけが残される。静まり返った空間に取り残され、由梨は緊張のあまり手足の置き場に困った。
――どうしよう。社長、なんだか機嫌が悪そう。 もしかして、私と三浦マネージャーの間に何かあったことを察しているんだろうか。
その頃、正俊は車をエントランスへ回していた。ちょうどそのタイミングで彼女から電話がかかってくる。正俊は上機嫌で征之に軽く挨拶をすると、そのまま意気揚々とデートへ向かった。
征之は見向きもせず、無言で車のドアを開けて乗り込む。
その姿を見て、由梨はそっと胸をなで下ろした。ようやくこの場が終わる。
社長の放つ圧はあまりにも強く、そばにいるだけで息苦しくなるほどだった。
だが次の瞬間、征之が車の窓を下ろした。「どうやって帰るんだ?」
「バスで帰ります」由梨は慌てて答える。
征之は眉をひそめた。「乗れ」短い一言だった。
だが相手は会社の社長だ。自分が送ってもらうなど、恐れ多いにもほどがある。由梨は慌てて首を振った。「いえ、本当に大丈夫です。バスで帰れますので」
征之は黙って彼女を見つめた。その表情から感情は読み取れない。
だがなぜか、有無を言わせない圧力だけは伝わってくる。由梨は背筋がひやりとした。これ以上待たせるわけにもいかず、おずおずと後部座席のドアへ手を伸ばす。
少しでも離れて座った方が気が楽だと思ったのだ。だが――。
「僕を運転手代わりにする気か?」冷たい声が飛んできた。
征之の声は低く心地よい響きを持っている。それなのに、その一言だけで由梨の心臓はびくりと跳ねた。彼女は慌ててドアを閉め、助手席へ回り込む。そして急いでシートベルトを締めた。
車内では終始沈黙が続いた。由梨は緊張のあまり、一言も発することができない。征之の表情はずっと硬いままで、口元もきつく結ばれている。どう見ても機嫌が良いとは言えなかった。
由梨は膝の上で握った指先が、わずかに震えていることに気づく。
やっぱり、遠くから見ているくらいがちょうどいい。今日だけで何度も接してみて初めて分かった。自分が憧れていた社長は、思っていた以上に気難しくて、何を考えているのか全く分からない人だったのだ。
今後は絶対に近づきすぎないようにしよう。
信号待ちの間、征之は何度か口を開きかけた。だが結局、何も言わなかった。
やがて車は由梨の自宅前に到着する。車を降りるまでの間、征之の顔にはずっと不機嫌ですと書いてあった。あまりにも分かりやすすぎるほどに。
由梨はなんとも言えない気分になった。
社長に送ってほしいと頼んだわけでもない。
それなのに、どうしてあんなに不機嫌なのだろう。
だが、そのもやもやは次の瞬間、一気に吹き飛んだ。代わりに胸の奥から怒りが込み上げてくる。
玄関先に立っていたのだ。別れたはずの元恋人――黒田慎吾が。
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