
どん底令嬢の逆転シンデレラ・リベンジ
章 3
竹田安律は、腹心の倉橋順司から差し出されたハンカチを静かに受け取った。
ゆっくりとした所作で、指先についた血を優雅に拭い取る。その動きには、どこか冷たい余裕があった。
やがて彼はマスクに手をかけ、ためらうことなく外した。
次の瞬間、闇の中から現れたのは、息をのむほど整った顔だった。
瞳は漆黒に澄み切り、光を吸い込むようなその目は、見つめる者を底なしの深淵へと引きずり込むようだった。
通った鼻筋の下に並ぶ唇は、薄く整っている。
鋭く引き締まった輪郭には、研ぎ澄まされた刀のような気品と力があり、日本の武士を思わせる厳しさを纏っていた。
それは、現実離れした美しさ──芸能界のどんなトップスターよりも輝く、非現実的な完璧さだった。
だが、その容姿以上に圧倒的なのは彼の放つ空気だ。
それは、無数の命を支配し、権力の頂点に立つ者だけが持つ圧倒的な威圧感だった。
「そうだとしたら、何か?」安律は笑みを浮かべ、黒い瞳に一瞬危険な光が走った。
綾乃は息を呑み、目を大きく見開いた。
この名前、この存在──それはまさに"伝説"そのものだった。
安律は竹田家の傍系として生まれたが、若くして家を離れ、十年間その行方をくらませていた。
しかし彼が再び姿を現した時、たった一人の力で国内の地下勢力を掌握し、"闇の王"と呼ばれる存在になっていたのだ。
今では国家の要職でさえ、彼の意志には逆らえない。
綾乃の元婚約者・竹田信一の実家である竹田家──。 彼らは、安律の存在によって一気に格が上がり、 普通の名家から"超名門"へと変貌した。
血縁上では、竹田信一は安律の甥にあたる。
つまり、あの結婚式の騒動がなければ、綾乃は安律の甥の妻になっていたわけだ。
さらに、妹の綾香が綾乃を脅して身を差し出させようとした伊藤家も、この町では大きな力を持つ一族だ。 だが、その支配力でさえ、安律の闇の組織と比べれば取るに足らない。 まるで、月とスッポンのように──。 圧倒的な差がある。
綾乃の心に、ひとつの考えが閃いた。
もし、この男が自分を助けてくれたなら──身を捧げずに済む。母も救えるかもしれない。そう思うと、綾乃は大きく息を吸い込み、勇気を振り絞って口を開いた。
「……さっき、私があなたを助けましたよね。だから、今度はあなたが私を助けてくれませんか?」
安律の黒い瞳に、ほんの一瞬、興味の色が浮かんだ。
彼の前でこれほど冷静に話す女は初めてだった。しかも、たった今、彼が人を殺すところを見たばかりだというのに。
安律は興味を持った。
彼は落ち着いた、だらりとした足取りで綾乃の前に歩み寄った。
長く骨ばった指が、彼女の小さな顎にそっと触れる。 目を細めて面白そうに彼女を見つめた。
「君は……自分が誰に取引を持ちかけているのか、わかっているのか?」
その声は低く響き、どこか甘く、それでいて背筋が凍るほど冷たかった。 「怖くないのか──私に殺されることが」
綾乃の胸が小刻みに震えた。男の纏うオーラは、まるで地獄の鬼が放つ気配のようだった。
確かにこの男は、常軌を逸した危険をはらんでいる。
彼と交渉するのは、虎の牙を撫でながら取引するようなものだ。
それでも、綾乃にはもう逃げ場がなかった。
「私は化学と医学の専門家です。多くの発明をしてきました。 もしあなたが私を助けてくれたら、あなたのために働きます。お金も稼げてあげる!」
安律は、淡々と首を振った。
「金はいらない」
低く呟いたその声には、絶対的な自信があった。
彼の指が綾乃の頬をすべり、軽く触れた。
血の匂いが微かに漂い、綾乃はその冷たい殺気を肌で感じた。
たとえ男の表情が穏やかでも、綾乃は少しも気を緩めなかった。
彼女は慎重に言葉を選び、恐る恐る口を開いた。
「あなたが望むものがあるなら、私にできることは何でも差し出します……」
その瞬間、安律の瞳がかすかに揺れた。
深い闇のような瞳に、ようやく綾乃の姿が映り込む。
その表情は、まるで神が祈りを捧げる者を見下ろすようだった。
「何でも……いいのか?」彼は唇の端をわずかに上げた。
「なら──これをもらう」
言葉と同時に、彼は片手で綾乃の腰を引き寄せ、もう片方の手で彼女の顎を掴んだ。
そして次の瞬間、ためらうことなく──
人々の視線が集まる中、彼は綾乃の唇を深く奪った。
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