
契約結婚、期限切れのはずが?――長谷川社長が毎夜跪いて更新を懇願してくる
章 3
榊原詩織は、何が起こっているのか全く分からないまま、車に乗せられた。
隣から低い男の声が聞こえた。 「あなたが榊原詩織さんですか?」
その声を聞いた瞬間、詩織の体はこわばった。
どこかで聞いたことがあるような声だった。
顔を上げると、目の前の男は彫りの深い顔立ちをしていた。 濃い眉の下に、鷹のように鋭い眼差しが光り、直視できないほどだった。
驚くほど整った顔立ちと、並外れた気品を兼ね備えている。
一度見たら、決して忘れられないような人物だ。
詩織は、この男に会った記憶は全くないと確信していた。 先ほどの既視感は、きっと気のせいだろう。
そんなことを考えながら、詩織はうつむき、か細い声で答えた。 「はい、そうですが……どちら様でしょうか?」
男は探るような視線で詩織を上から下まで見つめ、口を開いた。 「俺は長谷川彰人だ。 俺の家は、かつて君の父親と婚約を交わした。 今、その約束を履行しに来た」
……え?
詩織はどもりながら尋ねた。 「あ、あなたは……私と結婚する、と?」
「そう解釈してもらって構わない」
詩織は完全に呆然とした。 冗談に決まっている、と心の中で思った。
彰人は無表情で彼女の反応を観察していた。
その眼差しは鋭く、すべてを見透かすような探究心に満ちていた。
この男は危険だ、と詩織は本能的に感じた。
居心地の悪さに身をよじり、詩織は口を開いた。 「あの……」
「どれくらい風呂に入っていない?」
男は突然、詩織の言葉を遮った。
詩織は目をわずかに見開き、驚いて尋ねた。 「え?」
「臭い」 彰人は、その言葉がどれほど女性を傷つけるかなど、全く考慮していない様子で平然と言い放った。
詩織の顔は、みるみるうちに真っ赤になった。
恥ずかしさと屈辱感が、胸の奥からこみ上げてくる。
詩織は不安そうに自分の服の裾を握りしめた。 服はしわくちゃで、雨に濡れた上に、病院の壁の埃までついていた。 確かに、汚い。
赤らみは首筋まで広がり、詩織は恥ずかしさのあまり、自分の靴の先を見つめて身を固くした。
彰人は視線を外し、冷淡に運転手に命じた。 「麗水館へ戻れ」
車はすぐに発進し、詩織が拒否する間もなく、一路を飛ばした。
麗水館は高級住宅街の一角に位置していた。 陽光を浴びて静かに佇む、壮麗な二階建ての洋館である。
車を降りると、彰人は一人のメイドに、詩織を風呂に入れるよう命じた。
先ほど体臭を指摘されたせいか、メイドが近づいてきた時、不快そうに眉をひそめたように見えた。
詩織は気まずさを感じ、口を開いた。 「自分でできますから」
メイドは清潔な着替えを彼女に手渡すと、数歩下がって距離を保ちながら言った。 「二階の各部屋には専用の浴室がございます。 廊下の一番奥、右から三番目の部屋がご主人の部屋ですので、それ以外の部屋はご自由にお使いください」
詩織は一刻も早くこの屈辱的な場所から逃れたかった。 適当に頷くと、服を抱えて足早に階段を上った。
二階には多くの部屋があった。 詩織は階段口に一番近いドアを無造作に開け、そのまま中の浴室へ入った。
服を脱ぎ、鏡に映った自分の体を見て、詩織は息をのんだ。 白い肌の上には、無数のキス痕や噛み痕が痛々しく残っていた。
痕が残っていることは分かっていたが、まさかこれほどひどいとは……。
詩織は鼻の奥がツンとし、涙がこぼれそうになった。 鏡の中の自分を直視できず、慌ててシャワーをひねった。 温かい湯が、顔を伝う涙と混じり合って流れ落ちる。
あれは、ずっと大切にしてきた初めての経験だった。 愛する人のために取っておきたかったのに、こんな馬鹿げた形で失ってしまった。
相手の顔すら知らない。
詩織は、まるで痕を消し去るかのように、自分の体を力任せにこすり洗い続けた。 深い悲しみに沈み込み、シャワーの音にかき消されて、浴室のドアが静かに開けられた音に気づかなかった。
背後から、男の低い笑い声が聞こえるまでは。
「詩織、そんなに急いでこの家の女主人になりたいのか?」
おすすめの作品





