
裏切り夫を見捨てた妻、今は億万長者ママです
章 3
十一歳の弟がドアのそばに寄りかかっているのが見えた。同い年の子どもたちよりもひときわ小さく華奢な体。点滴スタンドを押し、途切れることなく咳き込んでいる。
榛葉天翔は、生まれつき重い血液の病を患っていた。
母親はそんな息子に耐えられず、重荷だと感じたのか、不倫の末に家を出ていった。
傍目には、榛葉家は栄華を極めているように見える。だが、その裏で父が三人の子供を育てるためにどれほどの苦労を重ねてきたか、知る者はいない。
榛葉璃奈は鼻の奥がツンとなり、言葉を詰まらせながら弟を見つめた。胸にずしりとした重みが広がる。「天翔、あなた、何か知ってるの?」
天翔は足を引きずりながら歩み寄ってきた。長い闘病生活で、彼の筋肉は萎縮してしまっている。
少年はベッドに目を向けた。「父さんの書斎で、中川雪乃の写真を見たんだ。その時、父さんはものすごく怒ってて、『私を脅す気か?』って言ってた。 そのあと、父さんは田辺秘書と海外に出かけたんだ。あの中川雪乃って人に会いに行ったのかな?」
海外へ?
けれど、佐久間修哉は、中川雪乃を見つけたのは榛葉家の旧宅だと言っていた。
それに、誰が父を脅したというのだろう?
璃奈は目を細め、中川雪乃という女について記憶を辿った。
佐久間修哉と結婚する前、彼女に会ったのは一度きりだ。
泣きながら電話をかけてきて、自分と修哉の結婚を祝福すると言った。そして、自分はずっと修哉を兄のように思っていたこと、そして、もうここを離れるが、行くお金がないことも告げてきた。
璃奈の心にやましいところはなかった。中川雪乃が20万円を求めてきたのに対し、彼女は200万円を持って駆けつけた。
だが、その金を中川雪乃に手渡した瞬間――
氷のように冷たい表情の佐久間修哉が現れ、璃奈にこう問い詰めたのだ。金で人を侮辱するつもりかと。
一方の中川雪乃は、まるで虐げられたか弱い花のようにお金を抱きしめ、ただただおどおどと泣きじゃくるばかりだった。
その一件以来、修哉は璃奈をあからさまに嫌悪するようになった。
雪乃は何もしていないように見えて、実に興味深い動きをしていたのだ。
思考の渦から我に返ると、璃奈の表情から温度が消えていた。「父さんの件には、もっと深い裏があるに違いないわ」
「裏って何? あの中川雪乃って人、義兄さんと……佐久間修哉と一緒になったの?」天翔が冷めた声で尋ねる。
「あの人はもう、お前の義兄さんじゃない」璃奈はそう答えるのが精一杯で、心が針で刺されたように痛んだ。
「ゲホッ、ゲホッ……」
弟の咳き込む声に顔を上げると、彼の服が破れていることに気づいた。小さな手は背中に隠されている。
その腕を引いてみると、血が滲み、額にはこぶができていた。
璃奈の顔色が変わる。「誰かに殴られたの?」
「真夜中に小児科病棟で寝てないで、どうして父さんのところに来たの?」
天翔の痩せた顔がこわばり、彼女の手を振り払った。「なんでもないよ、構わないで!」
「天翔!」
璃奈は何かを察し、緊張した面持ちで弟を掴んだ。「もしかして、治療費が払えないからって、小児科の先生に追い出されたの?」
少年の漆黒の瞳が、涙を浮かべながらも気丈に姉を見つめている。
天翔は唇を噛みしめた。「追い出すなら好きにすればいいさ。僕はあいつらと戦う!でも姉さん、僕の病気のために、もう二度とクラブで働くなんてしないでくれ。わかった?」
璃奈は凍りついた。屈辱が胸を焼く。「病院の人が、何か言ったの?」
「僕は死んだって構わない!姉さんは父さんの大事な宝物なんだ。僕のために、自分を犠牲にしちゃだめだ」 天翔は背中を丸めて咳き込みながら、怒りを露わにした。
璃奈の美しい瞳が赤く染まる。心に温かさと、どうしようもない切なさが広がった。
どうして見捨てられるだろうか。
弟にはまだ手術が必要で、毎週の透析と高価な輸入薬が欠かせない。治療費はすでに莫大な額に膨れ上がっていた。
彼女にはもう、本当にお金がなかった。だからこそ今夜、自分を売ろうと決心したのだ。
それなのに、出会ったのは佐久間修哉で、惨めなほどに辱められ、手ぶらで帰るしかなかった。
全身を無力感が支配する。白石典子にどう説明すればいいのか。彼女は紹介料を当てにしていたはずだ。
そう考えていると、まさにその相手から電話がかかってきた。
璃奈は顔をこわばらせ、電話に出る。「白石さん……」
電話の向こうから、冷たい怒声が浴びせられた。「榛葉璃奈!どうしてしくじったんだい?しかも大事な客を怒らせるなんて。 あたしの骨折りも水の泡だよ。明日の夜、店に来な。給料を払ってクビにするから!」
「待ってください、お願いします、白石さん」
彼女は床に崩れ落ちた。きっと佐久間修哉の仕業だ。
あの愛人契約を断ったから、彼は自分を徹底的に追い詰めようとしている。
でも、天翔の薬を止めるわけにはいかない。
これまでやってきたアルバイトの中で、クラブの仕事が一番早くお金になった。
もうプライドなんて捨てて、白石さんに懇願するしかない。
その夜、璃奈はいつも通り「夜の制服」に着替えた。
豪華絢爛な青京クラブのオフィスで、しかし典子は取り付く島もない。「あんたをクビにしろって言ってるのは、うちの本当のオーナーだよ。代理出産の件で、客をあれほど怒らせるなんて、呆れたわ。 本当に、ただ綺麗なだけの世間知らずなお嬢様だったってわけだ」
璃奈がこのクラブで働き始めた頃、多くの男たちが彼女を指名しようと目の色を変えた。
彼女は確かに、男を惑わす特別な魅力を持っていた。上流階級で大切に育てられた者だけが持つ気品と華やかさ。透き通るような白い肌、潤んだ杏色の瞳、しなやかで触れれば消えそうな肢体は、ただそこに立っているだけで、男たちの心を奪うには十分すぎるほどだった。
典子は彼女で一儲けしようと目論んでいたが、今は冷たく言い放つ。「給料を受け取って、さっさと出て行きな!」
「白石さん、本当にお金が必要なんです」璃奈は声を詰まらせた。
「ここに来る女は、みんなそうさ」 典子は鋭く彼女を睨みつけたが、その力ない様子を見て、少しだけ口調を和らげた。「あんたが一体誰を怒らせたのか、よく考えな。 土下座して謝って仕事を続けさせてもらうか、それとも別の男を探して自分を売るか。 今夜は追い出さないでおいてあげる」
璃奈の血の気のない顔が、わずかにこわばった。
彼女は力なく頷く。「ありがとうございます、白石さん」
冷たい笑みが浮かぶ。怒らせた相手など、一人しかいない。 佐久間修哉の前で再び膝を屈するくらいなら、別の方法を探した方がましだ。
璃奈は深呼吸をし、真っ白な唇をきつく結んで廊下に出た。
青京クラブは、港川で最も金が乱れ飛ぶ歓楽の殿堂だ。裏で糸を引くオーナーは謎に包まれており、その姿を見た者は誰もいない。だが、このクラブを裏社会も表社会も手出しできない権力者たちの聖域に仕立て上げた手腕を考えれば、並の人物でないことは明らかだった。
壁一面が水晶のような鏡張りになっており、人の姿を鮮明に映し出す。
ふと、璃奈は壁に映る、ある女の顔に気づいた。
その女は、すぐ目の前に立っていた。
彼女が顔を上げた瞬間、息が止まった。
中川雪乃……!?
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