
捨てられ令嬢は、世界一のスパダリ富豪に強引に娶られる
章 3
「苑実、辛い思いをさせちゃったわね」 リビングへ通されるなり、秋葉家の当主夫人である村上美緒が駆け寄ってその手を取った。
五十路を過ぎているとは思えない、手入れの行き届いた若々しい顔。
だがその美しい貌には今、心からの憂いの色が浮かんでいた。
この二年、婚約者である秋葉健人が問題を起こすたび、美緒はいつも松浦苑実の味方をしてくれた。
もっとも、それは健人を軽く叱るだけで、結局は可愛い息子を庇うためのもの。どうせ実の息子なのだから。
今も、まさにそうだ。
美緒は苑実への気遣わしげな表情から一転、怒りをたたえた鋭い眼差しで健人を睨んだ。「この馬鹿!さっさと苑実に謝りなさい!」
いつもの苑実なら、きっと『大丈夫です』と微笑んでみせたことだろう。
だが、今日はもう、そんな言葉を口にするのも億劫だった。健人が何か言い訳を口にするより早く、苑実は静かに口を開いた。「おば様、少し頭が痛むものですから、お部屋で休ませていただけますか」
苑実の青白い顔色に、美緒ははっとしたように頷いた。「ええ、もちろんよ。上でゆっくり休んでいなさい。食事の時間になったら、誰かに声をかけさせるから」
苑実は小さく頷くと、そのまま黙って二階へと続く階段を上がっていった。
その背中が階段の向こうに消えるのを見届けると、美緒は不満げに健人へと向き直った。「あんた、一体どういうつもりなの?よりによって、綾乃なんて隠し子と……」
健人:「母さん、綾乃をそんな風に言うのはやめてくれ。彼女だって、正真正銘、松浦のおじさんの娘なんだ。 それに、最初に出会ったのは杉田おばさんと松浦のおじさんの方なんだ」
「あんた……!」 一瞬、目の前が真っ暗になるほどの怒りが込み上げた。
一度深く息を吸い込むことで、かろうじて胸の内に渦巻く激情を抑え込んだ。向き直った時には、すでに冷静だった。 「あなたが綾乃とどうなろうと、私には関係ない。でも、これだけは覚えておきなさい。あなたの婚約者は苑実。そして、秋葉家の若奥様になれるのも、苑実ただ一人なのよ」
この台詞を、美緒が口にするのは初めてではなかった。
健人は、それこそ耳にタコができるほど聞かされてきた。
だが、今回ばかりは、健人も思わず母を見つめ返した。「母さんがそこまでして苑実を俺に嫁がせたいのは、安藤のおばさんとの約束だからか?それとも……苑実が持っている、あの六割の株のせいか?」
商人は、利を以て動く。
美緒もまた、その例外ではなかった。
当時、二つ返事でこの婚約を承諾したのは、親友との情もあった。だが、それ以上に大きかったのは、苑実の持つ株だった。
松浦グループは泉が一代で築き上げたもの。彼女は早逝したとはいえ、一人娘の苑実に60パーセントもの株を遺していたのだ。
「苑実が松浦グループの株を六割も持っていると分かっているなら、少しは彼女を大事にしなさい。 健人、お母さんはあなたを害するようなことはしないわ。私のすることはすべて、あなたの将来のためなのよ。 苑実を娶って、あなたに何の損があるの。 容姿にしても能力にしても、綾乃のどこが苑実に敵うというの。 これ以上好き勝手を続ければ、苑実はあなたに心底失望するわ。母さんが保証する。あなたはきっと後で後悔することになるのよ」
「もういい、母さん。やめてくれ。俺は苑実と結婚しないなんて、一言も言ってないだろ」 健人はうんざりしたように母の言葉を遮ると、足早に二階へと上がっていった。
二階の自室に戻った苑実は、窓辺の長椅子に深く身を沈め、ただ静かに窓の外の噴水を眺めていた。
傍らのスマートフォンが、不意に短く震えた。
送られてきた写真に、苑実は目を見開いた。
それは、一対の銀の結婚指輪。シンプルで洗練された、まさに苑実が好みとするデザインだった。
「気に入ったか」
藤原晴樹からのメッセージに、苑実は戸惑いながら返信した。「これは……?」
「気に入ったか」 返ってきたのは、同じ問いだった。
苑実は数秒間黙り込み、そして、一言だけ打ち込んだ。「好き」
メッセージを送ったきり、スマートフォンは沈黙した。
その頃、晴樹は送られてきた二文字を見つめ、わずかに口元を緩めていた。
その変化に、隣にいた川崎聡は目を丸くする。「お前が笑うなんて……何かに憑いたんじゃないか?」
親友の茶化すような声に、晴樹の口元の笑みは一瞬で消えた。
あまりの速さに、聡は今の光景は幻だったのではないかとさえ思った。
「安藤大奥様の容態は?」
晴樹の言う安藤大奥様とは、苑実の母方の祖母のことだ。
患者の話となると、聡の表情が引き締まる。「芳しくない。心脈がかなり衰弱している。さすがの俺でも、そう長くはもたせられないだろう」
「このヤブ医者め」
己の医術を疑われて黙っている医者はいない。まして聡は、国際的にも名を知られた天才医師である。
普段の冷静沈着な天才医師も、さすがに顔をしかめた。「なんだと!こっちは医者であって、神様じゃないんだぞ! ……そもそも、安藤大奥様の件で腑に落ちないことがある。治療を俺に依頼したのはお前だろう。なのになぜ、秋葉家からの招待まで受けさせた?」
まるで数千万ごときに目がくらんだかのようだ。
晴樹は聡の問いには答えず、ただ卓上の一枚の図面へと視線を落とした。
それは一対の結婚指輪のデザイン画。先ほど、彼が苑実に送ったものだった。
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