
砕かれた福の神と愛の終焉
章 3
―― 麻里乃 ――
私が百合奈の挑発を無視して立ち去ろうとしたその時だった。百合奈は足元にあったコードにつまづいた。彼女はバランスを崩し、大きくよろめいた。
「きゃっ!」
百合奈は悲鳴を上げた。彼女は床に倒れ込み、その瞬間、近くのデスクの角に手を打ち付けた。鋭い音が響き、彼女の手の甲から血がにじみ出た。
その悲鳴を聞きつけた光紀が、会議室から飛び出してきた。彼は百合奈の血まみれの手を見て、顔色を変えた。彼の目は、瞬く間に怒りに燃え上がった。
光紀は会議を中断し、百合奈のもとへ駆け寄った。彼は百合奈を抱き起こし、腕の中に優しく抱きしめた。その姿は、まるで百合奈が彼の唯一の存在であるかのようだった。
「誰がやったんだ! 誰が百合奈を傷つけた!」
光紀の怒鳴り声が、オフィス中に響き渡った。彼の声は恐怖を伴い、周囲の社員たちは皆、縮み上がった。誰もが光紀の恐ろしい形相に怯え、口を開くことができなかった。
私は光紀の目に映る憎しみを真っ直ぐに見た。そして、ためらいなく答えた。
「私がやった。」
私の言葉に、光紀の瞳が凍りついた。百合奈は光紀の腕の中で顔を上げた。
「彼女が勝手に転んだだけだ。自業自得だ。」
私はそう言って、百合奈を冷たく見下ろした。彼女の挑発が招いた結果だった。
百合奈は光紀の腕の中で泣きじゃくった。
「社長…私、あなたのことを愛してしまったから、こんな目に遭うんです。奥様が私を憎んでいるから、こんな…」
彼女は涙を流し、自身が犠牲者であるかのように語った。そして、光紀への揺るぎない愛を訴えた。
「私、社長のこと、本当に愛しています。どんなことがあっても、社長のそばにいたいです…」
百合奈の言葉に、光紀はフッと笑った。彼の笑みは、百合奈への寵愛を明確に示していた。彼は百合奈の髪を優しく撫でた。
「大丈夫だ。君は悪くない。私が守ってやる。」
光紀は百合奈を抱きしめ、額にキスをした。その優しい眼差しは、私に向けられたことのないものだった。私は光紀が百合奈に注ぐ愛情を、確かにこの目で見た。それは、私への復讐だけでは説明できないものだった。
私は光紀に近づき、冷たい声で言った。
「治療費が欲しい。病気になった。お金がない。」
私と光紀の間には、もう夫婦としての絆はなかった。私たちの関係は、結婚という契約でしか繋がっていなかった。光紀は、私を金のために彼を捨てた女だと信じ込み、その憎しみから私と結婚した。
光紀は、私が金のために彼を捨てたとずっと信じていた。だから、彼は私がお金を要求することを憎んでいた。彼は私を軽蔑し、金にがめつい女だと罵った。しかし、私はそんなこと、もう気にならなかった。
過去、私が彼に金を要求するたびに、彼は渋々ながらも私の要求に応じていた。それが、彼の私への復讐の方法だった。私に屈辱を与え、私を支配すること。しかし、今回は違った。
光紀は私を冷めた目で見つめた。そして、初めて私に屈辱的な条件を突きつけた。
「百合奈に謝罪しろ。そうすれば、金をやる。」
光紀の言葉に、私の全身が震えた。謝罪など、できるはずがなかった。私の尊厳を踏みにじる要求だった。私は首を横に振った。
「しない。」
その瞬間、私の体は激しい痛みに襲われた。胃のあたりが締め付けられ、頭が真っ白になった。立っているのがやっとだった。
私は光紀に背を向けた。彼からの金も、彼の言葉も、もういらなかった。私はただ、この場所から立ち去りたかった。
私は知っていた。私が死んだ後、光紀はきっと、私の真実を知るだろう。その時、彼はどんな顔をするだろうか。どんな後悔に苛まれるだろうか。私はそのことを、少しだけ気になった。だが、その時はまだ、自分が彼の前から「死」という形で完全に消えることになるとは、考えてもいなかった。
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