
ハニー、俺の隣に戻っておいで
章 3
ヘンリーがそれ以上何も言わないのでジョンは視線を上げた。 「それで全部か?」
ヘンリーはうなずいた。 「彼女が大学に入学する前の情報はすっぽり抜け落ちていて、何も見つかりませんでした」
「あんたですら何も見つからないのか?」 ジョンが物思いにふけるように見つめると、
ヘンリーは再びうなずいた。 「彼女の情報はわざと消されているんです」
どうやって人間一人の情報を完全に消し去ったのだろう? たとえヘンリーが世界屈指のハッカーだったとしても、何も見つからなかったはずだ。 あの女はそれほど単純ではなかったのだ。
あるいは、彼女の夫が抜け目ないのかもしれない。
だとすると、運命以外にニーナをジョンのもとに連れ戻す方法はない。
おそらく昨夜は二人の人生が交わる唯一の時間だったのだ。
上司の物思いにふけるような表情を見て、ヘンリーはジョンがニーナに本気になっているのを察した。 だから既婚だというのを知ってよほど落胆したのだろう。
他の男に先を越されたのは、たしかに残念だった。
ヘンリーが背を向けたとき、ジョンは「あいつに俺の子供を妊娠させるなよ」とぴしゃりと言い放った。
彼はどんなトラブルにも巻き込まれたくないのだ。
「この男は冷たいだけだなく、無情なのだ」とヘンリーは考えた。
少なくとも、二人は一晩を共にしたのに、 どうしてあの女性にそんなに冷たいのだろうか?
ヘンリーはもう一度データを一瞥した。
その瞬間、ニーナが本当は何者なのか思い出した。
そうだ! 彼女は……
ヘンリーは固まった。
だから、彼女のことを知っている気がしたのも不思議でも何でもない!
ニーナは密かに結婚したジョンの妻なのだ!
実は、ジョン本人は自分が結婚していることを知らなかった!
二人はそもそも愛し合って何の問題もない間柄だったのに、それを知らずに愛し合ったのだ。
「あのう...... シー社長……」 ヘンリーは頭をもたげ、ジョンがエレベーターに乗るのを止めた。
ジョンは、重要な要件でないなら邪魔するなとでも言いたげに、振り返ってヘンリーの方を一瞥した。
ヘンリーは言うか言うまいか迷った。
しかし、ジョンがもし事実を知っていて、ヘンリーが隠していることもわかっているとしたら、生きたまま火あぶりにされかねない。 深呼吸をして、ヘンリーは自分を落ち着かせた。
「シー社長、 彼女は... ニーナさんは本当は」あなたの奥様です……
「アシスタントの仕事に応募したとき、俺がいいと言うまでは黙っていろと誰にも教わらなかったのか?」
ジョンが激しく遮ったから、ヘンリーは言葉を続けようとしていたが、結局、残りの言葉は言えなかった。
きつい言葉に驚いて、背筋を伸ばして頷いた。 「はい、 シー社長。 もうしません」
「一月分の給料を差し引いておけ、 それがお前の罰だ」ジョンは冷たくそう言うと、王様が家来に命令するかのように手を振った。
ヘンリーは雷に打たれたかのように固まった。 彼は口を開けたが、言葉が出なかった。
やっと1か月足らず働いたところなのだ。それなのに一生懸命働いて稼いだ給料はなくなってしまった。 なんとひどいだ!
ヘンリーはひどく怒っていたが、あえて口をつぐんだ。
午後 3時。
ニーナはまだ眠かったが、 六時にスクエア通り一番地でディナーパーティーがあるから来るようにという電話に答えていた。 彼女は迷うことなく同意した。 それどころか、待ちきれなかった。
離婚するための策を巡らせていたところに、ちょうどよくチャンスがやってきたのだから。
確か スクエア通り一番地はテラスハウスだった。 実際のところ、道沿いに住んでいるのはその家族だけなのでとても静かだ。
ニーナは無意識にバッグに触れた。
書いたばかりの離婚届が入っているのだ。
中庭に足を踏み入れるとすぐに、後ろで低い声がした。 彼女の義父だ。 彼はニーナの到着に微笑んだ。
サム・シーは六十代なので、ニーナは彼の息子がもう四十にはなっているだろうと思った。
ところが、彼はその年でまだ未婚で、妻を見つけるのに父親の世話になっているのだ。 おそらく、その男はよほど醜いかあるいは精神疾患なのだろう。
だとすれば離婚届を渡すのをためらうことはない。
「いや、よくきたね!」 サム・シーは白髪で、微笑むたびに顔のしわがはっきりと見えた。 彼は年をとっているようには見えたが、それでもかなり元気だった。
ニーナは頭を下げて彼に近づく。 「おじさん」
サムはその呼び方に眉をひそめた。
ニーナは彼の義理の娘なのだ。 どうして赤の他人のようにおじさんなんて言うのだろう。
「そんなよそよそしい呼び方はやめなさい」 サムはやさしく諭した。
ニーナはぎこちなく笑う。
もちろん。
「君はわしの息子の妻なんだぞ。 おじさんなんてやめてくれ」
「私は近々あなたの義理の娘ではなくなります」
しかし、ニーナはそう言うのをためらった。 老人にショックを与えるのを恐れて言いたくなかったのだ。
しかし引き伸ばしてどうするのか?
サムは今日、家族の夕食会を準備していた。ニーナの結婚相手も来るに違いない。 彼がそこでニーナに会ったらどうなるか? そして、離婚を拒否したら……
今すぐ関係をきっぱり断った方がいいに決まっている。
「おじさん、今日はお話があって来たんです」 そして、それ以上何も言わずにバッグから離婚届を取り出す。
その日の朝に印刷したばかりなので、インクがまだ新しい。
ニーナはその離婚届をサムに手渡した。 「おじさん、離婚届です。 私はもう署名しました。 お願いします……」
夫の名前は何だったっけ?
彼女はまばたきし、夫の名前すら知らなかったことに今さら驚いて、「夫に渡して、署名するように言ってください」と続けた。
離婚届?
サムの表情が一変する。 彼は書類を一瞥するとニーナの方に目をやり、表情を観察した。
どうやら本当に離婚するつもりらしい。
しかも自分で離婚届を準備して来るとは。
「考え直さないかね?」 サムはやさしく諭した。
けれどもニーナはすでに決心していた。
どんな解決策を考えても、結局離婚に辿り着くのだから仕方ない。
もし浮気をしていなければ、ニーナはそんに焦って離婚を考えなかっただろう。 けれども二千万ドルが鉛のようにのしかかっていた。
彼女は今、夫が現れることすら望んでいなかった。
夫が何らかの理由で事実を知ったらどうなるか? ニーナは死にたくなかった!
サムの顔全体に失望が広がるのを見て、彼女は痛む額に手をやった。 「私はもう決心しています。 私の名義の所有物はみんな手放しますから」
「本気か?」 もうシー家の後ろ盾はいらないのだろうか?
サムを除いて家族の誰もニーナのことは知らなかった。 この件に関してはサムが全ての原因なのだ。
もし彼がニーナに関するすべての情報を消し去っていなかったら、彼女はすでに家族に捕まっていただろう。
「はい」
二千万ドルを払わなくてよいなら、何でもよかった。
支払う能力がなかったわけではない。しかし不当な扱いを受けるのはごめんだ。
しかも、ニーナは家族から身を隠す術を心得ていた。
サムはしばらく考え、ニーナが離婚を望んでいるのは息子に会ったことがないからだと結論した。
「いや、わしは君の結婚に責任がある。 君と息子が会ったことがないのはわしのせいだ」と言った。
そしてコートのポケットから色あせた1インチほどの写真を取り出すと、ニーナに手渡した。 「わしの末っ子だよ。 離婚は会ってから決めなさい」
ニーナは写真を一瞥した。 色あせているので、若者の輪郭がぼんやりと見えるばかりだが、 大学を卒業したてのようだ。
ハンサムだったに違いない。
けれども最近の写真を見ないことには、今どうなのかは知りようがない。
「おじさん、夫を引き止めたくないんです」とニーナは言った。 それに、これ以上時間を無駄にする気もなかった。
サムは彼女の決心がぐらつかないのを見ると、離婚を断念させるには別の策に出る必要があると悟った。
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