
離婚を求めた天才外科医:もうあなたには戻らない
章 3
桜子は視線をそらし、自室のドアの前に立ち、慣れた手つきで暗証番号を入力する。
電子ロックが解除される音と共に、ドアを開けた。
その瞬間、桜子の動きが止まった。
リビングのソファに、西園寺暁が座っていた。ネクタイを少し緩め、明らかに不機見そうな顔でこちらを見ている。
桜子は一瞬だけ彼に視線を向けたが、すぐに逸らし、無表情のまま靴を脱いだ。彼を完全に無視して、寝室へ向かおうとする。
「おい」
立ち上がった暁が、彼女の腕を強く掴んだ。
その感触に、桜子の眉が不快にひそめられる。彼女は振り向き、掴まれた腕を冷たく振り払った。
「何ですの」
「あの女を、このマンションに住まわせたそうね」
桜子の声には、温度がなかった。
「結衣の身に危険が及ぶ可能性があった。ここのセキュリティが一番確実だ」
暁は苛立ちを隠さずに弁明する。
「そうですか。それはご親切なことで」
桜子は静かにそう言うと、バッグから一枚の書類を取り出した。昨日、暁が不在の間にサインだけしておいた、離婚届だ。
それを、ローテーブルの上に、滑らせるように置いた。
暁の視線が、その紙に落ちる。彼の瞳孔が、一瞬、鋭く収縮した。
彼は無言で離婚届を手に取ると、次の瞬間、何の躊躇もなくそれを真っ二つに引き裂いた。
ビリッ、という乾いた音がリビングに響く。
破り捨てられた紙の破片が、床にひらひらと舞い落ちる。
「離婚はしない」
低く、地を這うような声で暁が言った。
「絶対にだ」
桜子は、そんな彼を嘲りとも軽蔑ともつかない目で見つめた。そして、何も言わずに彼に背を向け、寝室に入ると内側から鍵をかけた。
ドアの向こうで、暁が忌々しげに舌打ちをする音が聞こえ、やがて玄関のドアが乱暴に閉まる音がした。
翌朝、桜子は部屋の隅にスーツケースを一つ置き、いつも通り病院へ出勤した。
タクシーで慶應義塾大学病院に着くと、ロッカールームで手術着であるスクラブに着替える。
着替えながら、彼女は無意識に左手首にある古い傷跡を指でなぞった。心のスイッチを切り替えるための、長年の癖だった。
オペ室へ向かい、念入りに手洗いを行う。
「小林先生、お願いします」
加藤誠をはじめとするオペチームのメンバーが、緊張した面持ちで彼女を迎えた。
「ええ。始めましょう」
今日のオペは、難易度の高い心臓バイパス手術だ。
桜子はメスを受け取ると、迷いのない、鮮やかな手つきで患者の胸に最初の切開を入れた。
私生活の混沌が嘘のように、彼女の心は静まり返り、目の前の生命だけに集中していく。
手術が中盤に差し掛かった時だった。
ピッ、ピッ、ピピピピッ!
モニターの警告音が、オペ室の緊張を極限まで高めた。予期せぬ部位からの出血だ。
チームに動揺が走る中、桜子の声だけが、氷のように冷静だった。
「慌てないで。サクション。ガーゼを」
彼女は素早く出血点を確認し、的確な指示を次々と飛ばしていく。その冷静さがチームに伝播し、オペ室は落ち着きを取り戻した。
彼女の迅速な処置により、患者のバイタルは徐々に安定していく。
それから数時間後。
桜子は、最後の一針を縫い終えた。
「……終了です」
その声と共に、オペ室は安堵の空気に包まれた。
桜子はオペ室を出て、マスクを外す。汗で湿った額を手の甲で拭った。
待合室で待っていた患者の母親、斎藤明美に手術の成功を告げると、彼女は泣きながら桜子の手を握りしめた。
「先生……! 本当に、本当にありがとうございました……!」
その温かい涙と感謝の言葉が、ささくれだった桜子の心を、ほんの少しだけ癒してくれた。
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